2010/05/14

ニュータウン感

18歳の春、初めての一人暮らしに選んだマンションは通学する大学から少し離れた街にある2Kだった。
大学まで行くために乗る電車の最寄り駅まで歩いて15分。自転車なら10分。そこから電車で2駅、さらに乗り変えて2駅。最後に大学が最寄り駅まで往復させている通称・芸バスで10分。
タイミングが良くて一時間。ギリギリ電車に乗れなかったり、バスの待ち時間がやたら長かったりしたら1時間半。それが四年通学した大学までのスタンダードな道程だった。


一人暮らしや大学に慣れてくると、その場所をわざわざ選んだことに疑問を感じる瞬間もあったが、幾つかの不便や面倒を無視できるほどの愛着をそこに感じてはいた。
駅前にあるスーパー、それなりに大きい本屋、家の近所にあるコンビニ、深夜まで空いてる胡散臭いレンタルビデオ屋、雨だと少し億劫になる最寄り駅までの距離。
それらすべては特別な何かではなかったが、それなりの思い入れを今でも少なからず抱いている。
学生時代に四年住んだだけの家族も友人もいない街。そんな場所に地元にも似た妙な感情を僕は今も持つことが出来ている。それには色んな要因が内在しているのだと思うが、単純に街と自分との相性が良かったんじゃないか?と、最近になって思うことがあった。


あの街にあった何処かニュータウン的といえる淡白な雰囲気。
最近になるまで意識したことはなかったが、数年前まで住んでいた本町にも今住んでいる大国町にも毛並みの違いはあれ、あの街と同じ淡白さは存在している。何処か人工的というか・・その土地や街の匂いが気薄なニュータウン感。それが僕がこれまで住んできた街の共通項として存在する。
同じ大阪の中心部でも九条や谷町、鶴橋、大正、天満といったところにその雰囲気はない。ある意味で淡白とは対極にある少し怖いぐらいの朗らかさ、一般的な大阪のイメージとして強い下町感が前面に出ている。
それらの街に対して「いいなー」という気持を抱いたことはあれ、住みたいと思ったことはない。
どうやら僕にとってあの下町感は小旅行気分で散歩しては立ち寄って和む場所ではあれ、居つく所ではないらしい。そのことが明確に意識として芽生えたのは、ある餃子屋に連れて行かれた朝だった。



大体の大人が床について寝静まっている深夜四時。
そんな夜とも朝ともいえない曖昧な時間に鳴る電話の内容はある程度想像がいく。
どうしようもない誰かからの用事とは呼べないような用件、酔っぱらった誰かからの酔っぱらった末での戯言、あとは一番あってほしくないやつでトラブル。まあ、どれもこれも無難ないつもの朝を迎えるには不必要なものばかりである。
基本的にいつもの朝を望んでいる僕としては、この時間帯の電話に対して応じないことも少なくはない。そりゃそうだ。寝てたということにすればいいのである。それが一番無難で賢い選択肢だ。
が、やはり電話は鳴っているわけで、鳴っている電話には出るのが世の常なわけで、気分やタイミングによってはその習わしに従って深夜だろうが早朝だろうが電話はでちゃったりもするのである。そして、いつもの朝は電話越しの声とともに掻き消される。

「飯食いにいこやー」
通話二秒でそんな台詞と共に僕の朝を掻き消した友人に連れられるままにやってきた雑居ビル。
その一階で餃子屋は確かに店を開いていた。午前五時。始発が出る時間帯だ。
どういった需要があるのだろう?と疑問に思いながらも、お世辞にも広いとはいえない店内へ足を踏み入れる。カウンター内には老人が1人。友人は何度か訪れているようで「叔母ちゃん、おはよー」なんて挨拶を交わしてる。微笑ましい光景であるはずなのに、なんだかとっても如何わしい。だって朝の5時だ。みのもんたが朝をズバッと切り裂くより早い時間帯なのだ。そりゃ嫌でも如何わしくもなる。
なんだか色々疑いながら、餃子を2人前注文する。と、老人は「男の子だからもっと食べなあかん。うちのは小さいから4人前食べれる。食べるな?」と持論を繰り出す。仕方がないので四人前頼む。
朝から2人で4人前の餃子。それからピータンや豆腐など幾つかの小料理。全ての作業を面倒くさそうしつつも手際よくこなす老婆。手が動く。それより口が動く。まるで隣の家のよくしゃべる叔母さん宅に晩御飯を食いに来たみたいになってる。確かに餃子は美味い。美味いんだけど、外に飯食いに来たはずなのに『突撃!隣の晩御飯』の実況レポーターのような気分にならないといかんのだ、と。
ゴシップ誌やワイドショーとは違った毛並みの下世話感。

どうも釈然としない気持ちで店を出た帰り道、そういえば同じ友人に連れられて入った九条の喫茶店も近い空気だったことを思い出した。
こちらは餃子屋に比べて致命的にマイナスなポイントがあって、店の昼間の顔としてプッシュしてるカレーがさして美味くはないという点だ。
そのわりには妙に自信満々で「うちのカレーは特別やからな。一回目はまず普通のビーフカレーを食べてもらう。二回目からカレーを選べる。三回目で初めてこのスペシャルなカレーを食べれるんや」と理解の範疇を超えた主張をかましてくれて、それはもう美味しいカレーを食わせてくれるんだろうと口にしたカレーが少し美味しいレトルトと大差のない味だったときは若干の殺意すら覚えた。つーか、ボンカレーに少し味付けしただけなんじゃないのか?と。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか「うちはな、水にも味ついてんねん。うっすらレモンの味や」なんて寒すぎる一言をブチかましてくれる始末。
友人はそんな喫茶店の脱力的なところがまた人間くさくて魅力なんだというのだが、ネタとしては魅力的でも普通に飯を食いに行く気分にはなれないというのが僕の正直な意見だ。
普通に腹が減っているタイミングであの喫茶店かマクドのどちらかで飯を食えと言われると、迷うことなくマクドを選ぶだろう僕がいる。美味い不味いというよりも、どんな下世話トークを炸裂させてくるかわからない人のいる場所にわざわざ飯を食いに行きたくはないという気持ちがでかい。そりゃ毎日マクドだと味気ないし、場合によって上の喫茶店はともかく餃子屋のような場所へ行きたい日だってある。ネタになるような店に足を運ぶのも嫌いじゃない。
ただ、酷く疲れた状態や極めてフラットな状態で選択するときに頭に浮かぶ店というのはマクドだったり松屋だったり天下一品だったりするわけだ。味気ないといえばそれまでなんだけど、やはりある種の安心はそこにあるし、ペースは無理をせずともあくまで自分で握ることができる。
これはきっと僕がニュータウン感のある街を選択し住んでいるのと同じ理由なんだと思う。

下町に存在する共同体めいた無意識の触れ合い。けっして嫌いではないのだが、しっかり中に入ってしまうと少し疲れてしまう。覘き見ては稀に立ち寄って触れてみる。それぐらいがちょうどいいのだ。
ニュータウンな淡白さは言葉のない優しさを持っている。それは下世話なトークにはない今の時代の優しさである。

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